先行配信vol.2

僕は母さんの顔を手で触って頭の中で想像することしかできない。最近は少し皺が増えたなあと思う。当たり前だけれど母さんも年を取るんだ。
 母さんの顔に手で触れるたび、僕は母さんが喜ぶことをしてあげたいと思う。
 思えば、絵を描くきっかけになったのはその思いからだった。
 五歳になったばかりの頃だったと思う。
 僕は母さんの顔の一つひとつのパーツを触りながら、ふと似顔絵をプレゼントしたいと思ったのだ。今思えば目の見えない僕が似顔絵を描こうと思ったのだから不思議だ。
 それを伝えると母さんは驚いてすぐに色鉛筆やクレヨン、それに絵の具セットまで買ってきてくれた。
 最初に僕は何色かも分からないクレヨンを手に取って似顔絵に挑戦してみたけれどクレヨンだとうまく表現できていないような気がして次に色鉛筆を手に取ってみた。
 そのとき偶然にも肌色を手に取っていたみたいだけれど、やはり手に用具を持って絵を描くのはどうもしっくりこず、僕は母さんに絵の具の使い方を訊いたのだった。
 一通り説明を受けた僕はあえて筆は使わず直接指に絵の具をつけて描いてみてはどうだろうと思い、左手で母さんの顔を確かめながら画用紙に似顔絵を描いてみたのだ。
 そのときは赤一色だったようだが、似顔絵は不思議とうまく描けているような気がして、事実母さんにも上手と褒められた。それがとても嬉しかった僕は、それ以来絵にのめり込むようになった。
 少しでも上達したくて僕は描写の練習はもちろん、対象物の色を忠実に再現するために絵の具の色を判別する訓練を幾度となく行った。
 最初に憶えたのは白だ。まずは母さんに『これが白』と教えてもらってから白の絵の具をパレットに載せて、指先で白の感触や特性を記憶していく。僕にはそれしか方法がなかった。
 もちろんただ普通に触るだけじゃなくて人差し指と親指でベタベタ伸ばしてみたり、押し潰してみたり、固まるまでこねてみたりして絵の具と遊ぶ。絵の具と友達になって、いつしか会話までしていた。
 そうしているうちに、だんだんと白の質感が分かってくる。
 脳と指先に白を完全にインプットしたら次の色、という具合に僕はたくさんの色を憶えていった。
 完全にマスターした頃、絵のモデルになってもらった健常者の女性に、絵の具を触っただけでどの色か判断できるなんて信じられない、実は手品みたいなものでタネや仕掛けがあるのでしょう? と訊かれたことがあるが僕は当たり前のように触っただけで分かるのですと答えた。そうとしか答えようがないんだ。
 普通の人は信じられないだろうけど、事実絵の具は色鉛筆やクレヨンと違って一つひとつ手触りや質感にちょっとした違いがある。
 例えば白は滑らかな手触りで粘り気が少なく優しい雰囲気を持っている。
 緑はサラッとした触り心地で指になじむ感じ。
 赤は粘着質で弾力があり、ちょっと野性的、といった感じかな。
 僕たちみたいに視覚に障害がある人間はそのぶん触覚や聴覚や嗅覚が普通の人よりも何倍も優れていて、僕の場合はその中でも特に触覚を用いて積極的に物を認識しようとする力が発達しているらしい。
 時々そんな僕を天才と呼ぶ人がいる。
 でも僕は決して天才なんかじゃない。あくまで色の違いが分かるだけだ。
 いくら指先だけで色の違いが分かると言ってもやはり僕には絵を描く者として大きなハンデがある。
 まずはリアルな色が分からないということ。
 風景を描けないのと一緒でこの点についても僕はどうすることもできない。
 例えば今描いている桜の花びら。
 桜の花びらがピンクであると認識しているから、赤と白を混ぜてピンクで塗っているけれど、僕はピンクがどんな色なのか分からない。見たことがないから想像すらつかないんだ。
 僕の通う視覚特別支援学校では点字指導や白杖歩行の練習はもちろん、〝色〟の授業がある。
 むろん僕たちは色を見たことがないので色彩語や感情などで色を憶える。
 例えば赤は、リンゴ、血、情熱的、興奮。
 青は、空、風、さわやか、冷静、知性、といったように。
 僕たちは会話や普段の生活から色を学び、自分なりにイメージする。
 でもあくまでイメージだ。リアルな色は絶対に分からない。
 絵を描くのが大好きな僕にはそれがとても辛い。苦しい。悲しい。
 たった一度でいいから世界中に存在するありとあらゆる色を見てみたい。
 僕が知っているのはいつも目の前に広がっている〝黒〟だけだ。
 どうやら黒はリアルな色らしい。
 色を愛する僕にとってそれは喜ぶべきことだ。
 でも、皮肉にも僕は黒があまり好きじゃない。
 なぜなら黒には不幸やら絶望やら、暗いイメージがあるからだ。
 だから僕は絵を描く際できるだけ黒は使わず明るいイメージの色を使うようにしている。
 見てもらう人にも明るい気持ちになってもらいたいから。

先行配信vol.3は11/12 (火)の予定です。