先行配信vol.6

  歩きながら彼女の姿を想像する僕は無意識のうちに、
 「藤木さんは今日部活かな?」
  直人に訊いていた。
 「たぶんな」
  僕は彼女を思い浮かべたまま「そっか」とつぶやいた。
  直人は一拍置いて、
 「てか急にどうしたんだよ」
  僕を不思議がる様子で訊いてきた。
  僕は自分のほうから彼女の話題に触れていることに気づきひどく慌てた。
 「あ、いや、僕じゃなくて藤木さんを誘えばいいのにと思って」
  直人は僕に冷やかされたと思ったらしく、
 「バカ! そんなの無理に決まってるだろ。無理無理」
  僕の耳元で叫んだ。
  左耳がキンとなって、僕は耳元で大声出さないでよ、と言ったのだけれど、直人に僕の声は届いていないらしかった。
 「どうしたの?」
  真剣な声の調子で尋ねると直人は立ち止まり、
 「いや、九時の方角で子供同士がオモチャの奪い合いしてるんだ」
 「喧嘩?」
 「いや喧嘩ってより、一人がもう一人をイジメてるように見えるぜ」
  それを聞いた瞬間僕は暗い気持ちになると同時に、ある嫌な出来事を思い出してしまった。
  直人も真っ先に僕の話を思い出したらしく、僕の右肩に優しく手を置いて、
 「そういえばここ最近は大丈夫か?」
  僕はうなずき、
 「春休みに入ってからは」
  と言った。
  直人は舌打ちして、
 「マジでゲス野郎だよなそいつ。正体がバレないからってよ。卑怯すぎるぜ。早く死んでくれねえかな」
  恨みと憎しみのこもった声で言った。
  僕は直人とは違って怒りとか憎しみを覚えるというより、ただただ悲しい。
  まだ母さんには話していないのだけれど、三ヶ月くらい前から僕は嫌がらせを受けている。
  登校時や下校時、一人で歩いていると背後から忍び寄ってきて、いきなり僕の白杖を蹴ってきたり、引っ張ったりしてくる奴がいるのだ。
  同一人物だと思うのだけれど、僕には犯人の正体が分からない。すぐ目の前にいるというのに。
  やめてくださいと言ってもやめてはくれず、僕が嫌がっているのをクスクス笑って楽しんでいる。けれど決して言葉は発しない。
  大声で叫ぶと逃げていくのだけれど、一週間くらい経つとまた現れる。
  これまで僕は僕の知らないところで差別的なことを言われてはいただろうけど、直接的な嫌がらせを受けたことはなかった。
  笑い声からしてきっと少年だと思う。
  ただ弱い者イジメがしたいだけなのだろうか。
  それとも僕に何か恨みでもあるのだろうか。
  僕のことが嫌いなら嫌いでもいい。
  気に入らないことがあるのなら謝るから、どうかそっとしておいてほしい。耳を澄ますとイジメている子の乱暴な声が聞こえてくる。「俺の命令を聞け!」「早く渡
 せ!」と。
  やがてイジメられている子の泣き声が聞こえてきた。
  泣きながら、「返して返して」と叫んでいる。
  僕は胸が締め付けられる思いだった。
  直人の袖を引っ張り、止めにいってあげてと頼んだ。直人は僕に「ここで待ってろ」と
 言って子供たちの下に向かった。
  道路に一人立ち尽くす僕は二人が仲直りできるよう心の中で願う。
  しばらくして直人が僕の下に走って戻ってくるのを気配で感じた。「バスが来てるぞ伸也」
 という直人の声がして、僕は白杖を前に出して地面を確認しながら道路脇に避けて、バスが通り過ぎるのを待っていた。
  やがて直人が隣に戻ってきて、僕を安心させるように僕の左腕をしっかりと掴んでくれた。
  僕は子供たちがどうなったのか気になって直人に訊いたのだけれど、直人はそれどころじゃないといった様子でこう言った。
 「なんだあの〝メイサイバス〟は」と。
  バスのエンジン音で聞き取りづらかったけれど直人は確かにそう言ったと思う。
 〝メイサイ〟って何だろう、と考えていると、すぐ横でバスが停車したのが分かって、扉が開き、バタバタと人が降りてきて僕たちの下に近づいてきた。なのに無言だから不気味だった。
  直人が後ずさりながら「何だよ!」と叫ぶ。ひどく狼狽しているのが分かった。
  僕も何だか怖くなって後ずさったのだけれどいきなり直人と引き離されて、身体を担がれた。体つきですぐに男だと分かった。
  どうやらバスの中に運ばれるらしい。
  僕を担ぐ体格のいい男の口元から、シュコー、シュコー、と妙な音が聞こえてくる。生まれて初めて聞く音だった。
  どうやら直人も担がれているらしく「降ろせ降ろせ」と叫んでいる。
  やがて車内で降ろされ、僕は首を左右に振りながら近くにいるであろう男に「何をするつもりですか?」と震えながら問うた。
  男は何も答えない。やはりシュコー、シュコーと聞こえてくるだけだ。
  直人いるの? と手を伸ばした矢先、
 「藤木!」
  直人が僕の後ろで叫んだ。
  藤木って、まさかともえさん?
 「二ノ宮に、佐伯に……所まで」
 「どういうこと直人?」
 「皆……気を」
  だんだん直人が脱力していくのが分かる。
  僕も空気を吸っているだけなのにフラフラしてきた。
  恐ろしいほどの睡魔が襲ってきて、眠ったらいけないと自分に強く言い聞かせるのだけれど、両足首を掴まれて引きずり込まれたかのように膝が崩れ落ちて、僕は別の闇に吸い込まれていった。

伸也たちを拉致した迷彩バスの正体は?
連れ去られた先で過酷な実験がスタートする!


この続きは明日発売の本編で!

 

 

先行配信vol.5

  直人と友達になったのは僕が五歳になったばかりの頃、まだ絵を描き始めたばかりの頃だった。
 きっかけは母さんと公園の砂場で一緒にお山を作っているときだった。
 僕が直人の気配に気づいて「こんにちは」と挨拶したのだけれど直人は何も答えない。いったいどうしたのかなと不思議に思っていると、無言のままお山作りに参加してきたのだ。彼らしいと言えば彼らしい。
 僕は嬉しい感情よりも先に意外な思いを抱いた。
 当時から僕が全盲であることは近所では知られていて、気を遣ってか、それとも差別か、僕と母さんに近づく者はほとんどいなかったから。
 聞けば直人は最初、僕が〝全盲の子〟だとは知らなかったらしいけど、僕が〝全盲の子〟だと知っても態度は変わらず友達のままでいてくれた。
 やんちゃで口が悪いから誤解されやすいけれど、本当は正義感が強くて面倒見がよくて、とても優しい奴なんだ。
 彼は僕とただ遊ぶだけじゃなく、目が見えないとはどういうことか、目に障害のある人とどう付き合えばいいかを、僕の知らないところで母さんに訊いてくれていたそうだ。
 一生懸命僕のことを知ろうとしてくれているのを知ったとき僕は泣いた。初めて親友ができたと思えた瞬間だった。
 彼と一番よく遊んだのは五歳から六歳になるまでの一年間。
 僕からは何だか誘いづらくて、それを知ってかいつも直人のほうから誘ってくれた。
 遊ぶ約束がない日も、ふと直人がやってきてくれないかなあと思うと本当にやってきてくれたっけ。
 僕のテレパシーを感じ取るエスパーみたいに。
 小学校に上がると同時に直人はサッカーを始めたからだんだん会う回数が減っていったけれど、それでも時間を作って会いにきてくれて、僕の絵を褒めてくれたり、サッカーの話をしてくれたりした。
 僕は自分の絵を褒められるよりも、直人がサッカーの話をするほうが嬉しい。
 直人にはもっともっと上手くなってもらって、試合で活躍して、将来はプロのサッカー選手になってほしい。
 でもここ最近の直人の話を聞いているとどうやらサッカー選手になるつもりはないらしい。
 それよりも彼が今よく話題に出すのはある女の子のこと。
 それは僕もよく知っている女の子。
 九年前、直人と初めて砂遊びをした日、実はもう一人お山作りに参加してきた女の子がいた。
 男の子二人に交じってせっせと山を作っていき、やっと完成したと思ったら、もっとお姫様が住めるような形にしたいとワガママを言って、せっかく作ったお山をグチャグチャに壊してしまったんだっけ。
 その女の子こそが今直人が恋心を抱いている人。
 藤木ともえ。僕は彼女と直接話すときは藤木さんと呼ぶけれど、心の中ではともえさんと呼んでいる。一方彼女は僕のことを『クロちゃん』と呼ぶ。黒澤だからクロちゃんだ。
 彼女は僕の家の二軒隣に住んでいて、年は僕たちと同い年。直人と同じ中学校に通っていて、バスケ部に所属しているそうだ。
 直人が彼女に恋心を抱くようになったのは意外と最近だ。幼い頃からの仲だからずっとただの女友達としか見ていなかったようだけれど、たまたま一緒に下校したとき偶然彼女の手に触れて、それ以来彼女を意識するようになったそうだ。
 彼らしいと言えば彼らしいし、らしくないと言えばらしくないのだけれど、僕はその話を聞いたとき、何だかいいなあと思った。直人のことが色々な意味で羨ましかった。
 直人曰く、彼女のほうは直人を友達としか見ていないらしくて、幼い頃からの仲だから直人は彼女に想いを伝えにくいようだ。
 いつも強気な直人だけれど、彼女の話題になると人が変わったみたいに弱気になる。
 直人の最近の一番の悩みは、直人よりもともえさんのほうが若干背が高いことらしい。
 今一番の願いは、春休み明けのクラス替えで同じクラスになること、だそうだ。
 彼女の話を一通りしたあと、決まって直人は僕に、どうやって想いを伝えたらいいか一緒に作戦を考えてくれと言う。人に好きだと言ったことのないこの僕に、だ。
 さらには、僕のほうから彼女にそれとなく気持ちを訊いてほしいとまで言ってくる。近所だから訊こうと思えばすぐ訊けるだろうと軽い調子で言ってくるのだ。
 そう頼まれるたびに僕は困惑する。
 確かに二軒隣に住んでいて幼い頃から知ってはいるけれど、特別親しいわけではない。
 よく遊んでいたのは幼い頃のたった一年間だけだし、遊ぶときはいつも三人だった。二人で遊んだことは一度もない。
 ただ二人で帰ったことはある。彼女に手を引いてもらって。
 それが彼女との一番の思い出。
 いつも僕は全身ガチガチで何も喋ることができなかったけれど、心の中では明日も明後日も一緒に帰れたらいいなあと思ってた。
 でもその想いとは裏腹に楽しい時間はそう長くは続いてくれなくて、小学校に上がった頃からぱったりと遊ばなくなってしまった。
 家が二軒隣だから朝家を出る際たまに会うけれど、ほとんどは挨拶で終わってしまう。呼び止めれば話すことはできるけれど……。
 もっとも話す機会を作ったとして、僕のほうから訊けるはずがない。
 二人が恋人同士になるべきだと知ってはいるけれど。


最後の先行配信vol.6は11/21(木)の予定です。

先行配信vol.4

 僕は白杖を股に挟んで「おーいおーい」と直人に手を振った。
 直人が走ってくるのが分かる。けっこう離れたところにいたはずなのにあっという間に僕の目の前にやってきた。
 自由に走れるっていいなと思う。
 「よお伸也、久しぶりだな」
 少しハスキーな高い声。声変わりする前はもっと高くて可愛かった。
 「おばさん、ちわっす」
 母さんはウフフと笑って「こんにちは山崎くん」と言った。
 母さんが笑ったのは、声は少し大人になったけれど喋り口調は相変わらずね、と思ったからに違いない。僕も同じことを思った。同い年だけれど僕のほうがずっと大人だなって。
 直人とは一ヶ月ぶりくらいか。近くに住んでいるとはいえ学校が違うからなかなか会えないのだ。
 僕はやあと手を挙げ「久しぶり」と言った。
 「散歩か?」
 「さっきまで公園で絵を描いていたんだ」
 「へえ、今日はどんな絵だ?」
 「桜の花」
 「へえ、うまく描けたか?」
 「どうかな」
 僕はすかさず、
 「あれ、そういえば直人部活は?」
 と問うた。
 直人はサッカー部に所属していてチームのエースだ。むろん僕は直人のプレイを見たことはないけれど観戦しに行ったことは何度もある。
 いつもゴールを決めると真っ先に僕のところにやってきてくれるんだ。
 「春休み中は部活も休み?」
 「いや」
 真顔で首を振ったのが分かった。
 「最近毎日部活だったから今日はじいちゃんの法事だって嘘ついて休んだ」
 僕は直人がついた嘘にびっくりした。直人のおじいちゃんはまだ生きているはずだ。
 「そんな嘘ついて平気なのお? ていうより勝手におじいちゃん殺しちゃダメだよ」
 直人は悪びれた様子もなく、
 「いいのいいの。じいちゃんは北海道に住んでるからバレやしないって」
 静岡に住んでいる相手には確かにバレることはないだろうけれど……。
 「そういう問題じゃないような気がするけど」
 直人はガハハと笑い、
 「じいちゃんが死んだのはこれで二回目」
 直人の冗談に母さんが「あらあら」と呆れた。
 「サボってたら追い抜かれちゃうよ?」
 「平気平気、一日休んだってどうってことねえよ」
 せっかく心配してあげているのに、と僕は思う。直人はいつもこんな調子だ。僕がいくら心配しても説教しても聞きやしない。
 彼のお母さんは相当手を焼いているだろうなと思う。
 「それより伸也、これから暇か?」
 「まあ、暇と言えば暇だけど」
 「これから街のショッピングモールに行って洋服を買おうと思うんだけど一緒に行くか?」
 直人が言う街とは静岡駅周辺を指している。僕たちの住む町は田舎だからお洒落な洋服を買おうと思ったら駅前に出るしかないのだ。むろん僕は洋服なんて何だっていいから、いつも母さんが選んだ物を着ているのだけれど。
 僕は迷わず行くと言った。母さんにいいよねと訊くと「行ってらっしゃい」と言ってくれた。
 僕たちの住む町から静岡駅まで電車で約三十分。最寄りの駅に行くのにだってここからだと十五分はかかる。
 目の見えない僕にとっては大冒険だけれど、母親にしてみれば心配でたまらないと思う。それでも母さんが了承してくれたのは直人が僕の介助や扱いに慣れていると知っているからだ。
 「シンちゃん、これ電車賃とお小遣い」
 母さんは僕に三千円を渡してくれた。日本の紙幣は大きさが違うから触ればすぐに分かる。
 「じゃあ直人くんお願いね」
 母さんの声に不安はない。直人を心底信じている。
 「大丈夫っす。帰りもちゃんと家まで送りますから」
 「ありがとうね」
 僕は母さんのほうを向いて左手を挙げた。
 「じゃあね」と言うと、「うん」と母さんの優しい声が返ってきた。
 「行くべ伸也」
 直人が僕の左腕を軽く掴んで言った。
 僕は直人に身を委ね、
 「出発進行」
 と叫んだ。
 「俺はバスの運転手じゃねえぜ」
 直人はそう言いながらゆっくりと歩き出す。同時に僕も最初の一歩を踏み出した。僕と直人は息がぴったりだ。
 僕は母さんと歩いているときと同様に安心して歩いていられる。

 

先行配信vol.5は11/19(火)の予定です。

 

先行配信vol.3

 世の中に存在するありとあらゆる色を見てみたいという思いと同じくらい、僕は自分が描いた作品を見てみたいと思う。
 やはり自分が描いた作品を自分の目で見られないのはとても辛い。
 気分によっては自信をなくすこともある。
 僕が描けないのは本当に風景だけなのだろうか、と。
 実は一番好きな花さえしっかり描けておらずデタラメなんじゃないかと。
 母さんや周りの大人たちは皆上手上手と言うけれど、それはきっと目が見えないわりに、という意味が含まれているだろうから僕は自分の本当の実力が分からない。
 実際僕が描いた絵はどんな絵なのだろう?
 もし仮に神様が一度だけ自分の作品を見る機会を与えてくれたとして、目の前にある絵がとてつもなく下手だったらどうしよう……。
 何だかんだ言って、きっと僕は落ち込むよりも先に笑ってしまうんだろうなあ。
 そしてすぐにまた新しい絵を描くんだろう。
 いくら下手でも絵を描くのが好きなことに変わりはないのだから。

 桜の花の絵を完成させると母さんが後ろでパチパチと手を叩いてくれた。
「上手上手。よくできたねシンちゃん」
 伸也だからシンちゃん。僕はそろそろ普通に伸也と呼んで欲しいのだけれど、母さんにとって僕はいつまでもシンちゃんらしい。
 僕はありがとうと言って母さんの方向に手を伸ばす。
 すっと母さんが僕の手を取って、僕をベンチに座らせてくれた。
 絵を描き終えた僕の身体は徐々に熱が引いていく。濡れたTシャツが冷たくなって僕はくしゃみをした。鼻水が出てしまい困っていると、母さんが僕の口元にハンカチをあてた。自分でできるよと言っても母さんは大丈夫と言って最後まで僕に任せてはくれなかった。
 まるで赤ん坊だよと思った。
 誰も見ていないかな。
「シンちゃん、まだもう一つおにぎり残ってるよ。食べる?」
 そう言われると急にお腹が空いてきて、僕は首を縦に大きく振って母さんからおにぎりを受け取った。
 ノリがシナシナになったおにぎり。
 一口目でたらこにたどり着いた。
「おいしい?」
 僕はモグモグしながらウンウンと頷いた。
 ふと母さんが僕の額にベッタリとついた髪の毛をかき分けた。
「今日は暑いねえシンちゃん」
「まるで夏だね」
 僕と母さんはぼんやりと生温い風に浸る。
 母さんは今何を眺めているのだろう。
 同じ景色を一緒に見たいと思うけれどそれは叶わない。
 僕は青い空を見上げた。
 青い空ってどんな色なんだろう。
 空ってどんな眺めなんだろう。
 空には白い雲がたくさん浮かんでいるんだよね。雲って綿菓子みたいな形をしているって母さんに教えてもらった。
 僕は自分なりに空をイメージしてみるけれど色が分からないから感動がない。
 空に触れれば少しはイメージができるのにと思う。
「そろそろ帰ろうか」
 母さんが僕のほうを向いたのが分かった。
「買い物して帰ろうか」
「そうだね」
「晩ご飯何が食べたい?」
 僕は迷わず、
「ハンバーグ」
 と答えた。八割以上ハンバーグをリクエストするから母さんは呆れた声で「またあ?」と言った。
「いいのいいの」
 僕はベンチに立てかけてある白杖を手に取り立ち上がる。今は隣に母さんがいるからいいけれど、一人のときは杖がないと目的地にまでたどり着けない。仮に突然手から離れたら急に不安になって動けなくなってしまうと思う。
 白杖は僕の相棒。目の見える人からすると大袈裟かもしれないけれど、本当なんだ。
 僕と母さんは寄り添うようにして歩き出す。
 母さんが僕の左腕をしっかりと握ってくれているから僕はとても安心する。
 公園を出たのかな。
 柔らかい地面からアスファルトに変わった矢先だった。
 遠くのほうから「伸也、伸也」と聞こえてくる。
 どうやら僕の背後、六時の方向からのようだ。
 僕は母さんの袖を掴んだまま振り返った。
 姿は見えずとも、声で誰なのか分かる。
 直人だ。

先行配信vol.4は11/14(木)の予定です。

 

 

先行配信vol.2

僕は母さんの顔を手で触って頭の中で想像することしかできない。最近は少し皺が増えたなあと思う。当たり前だけれど母さんも年を取るんだ。
 母さんの顔に手で触れるたび、僕は母さんが喜ぶことをしてあげたいと思う。
 思えば、絵を描くきっかけになったのはその思いからだった。
 五歳になったばかりの頃だったと思う。
 僕は母さんの顔の一つひとつのパーツを触りながら、ふと似顔絵をプレゼントしたいと思ったのだ。今思えば目の見えない僕が似顔絵を描こうと思ったのだから不思議だ。
 それを伝えると母さんは驚いてすぐに色鉛筆やクレヨン、それに絵の具セットまで買ってきてくれた。
 最初に僕は何色かも分からないクレヨンを手に取って似顔絵に挑戦してみたけれどクレヨンだとうまく表現できていないような気がして次に色鉛筆を手に取ってみた。
 そのとき偶然にも肌色を手に取っていたみたいだけれど、やはり手に用具を持って絵を描くのはどうもしっくりこず、僕は母さんに絵の具の使い方を訊いたのだった。
 一通り説明を受けた僕はあえて筆は使わず直接指に絵の具をつけて描いてみてはどうだろうと思い、左手で母さんの顔を確かめながら画用紙に似顔絵を描いてみたのだ。
 そのときは赤一色だったようだが、似顔絵は不思議とうまく描けているような気がして、事実母さんにも上手と褒められた。それがとても嬉しかった僕は、それ以来絵にのめり込むようになった。
 少しでも上達したくて僕は描写の練習はもちろん、対象物の色を忠実に再現するために絵の具の色を判別する訓練を幾度となく行った。
 最初に憶えたのは白だ。まずは母さんに『これが白』と教えてもらってから白の絵の具をパレットに載せて、指先で白の感触や特性を記憶していく。僕にはそれしか方法がなかった。
 もちろんただ普通に触るだけじゃなくて人差し指と親指でベタベタ伸ばしてみたり、押し潰してみたり、固まるまでこねてみたりして絵の具と遊ぶ。絵の具と友達になって、いつしか会話までしていた。
 そうしているうちに、だんだんと白の質感が分かってくる。
 脳と指先に白を完全にインプットしたら次の色、という具合に僕はたくさんの色を憶えていった。
 完全にマスターした頃、絵のモデルになってもらった健常者の女性に、絵の具を触っただけでどの色か判断できるなんて信じられない、実は手品みたいなものでタネや仕掛けがあるのでしょう? と訊かれたことがあるが僕は当たり前のように触っただけで分かるのですと答えた。そうとしか答えようがないんだ。
 普通の人は信じられないだろうけど、事実絵の具は色鉛筆やクレヨンと違って一つひとつ手触りや質感にちょっとした違いがある。
 例えば白は滑らかな手触りで粘り気が少なく優しい雰囲気を持っている。
 緑はサラッとした触り心地で指になじむ感じ。
 赤は粘着質で弾力があり、ちょっと野性的、といった感じかな。
 僕たちみたいに視覚に障害がある人間はそのぶん触覚や聴覚や嗅覚が普通の人よりも何倍も優れていて、僕の場合はその中でも特に触覚を用いて積極的に物を認識しようとする力が発達しているらしい。
 時々そんな僕を天才と呼ぶ人がいる。
 でも僕は決して天才なんかじゃない。あくまで色の違いが分かるだけだ。
 いくら指先だけで色の違いが分かると言ってもやはり僕には絵を描く者として大きなハンデがある。
 まずはリアルな色が分からないということ。
 風景を描けないのと一緒でこの点についても僕はどうすることもできない。
 例えば今描いている桜の花びら。
 桜の花びらがピンクであると認識しているから、赤と白を混ぜてピンクで塗っているけれど、僕はピンクがどんな色なのか分からない。見たことがないから想像すらつかないんだ。
 僕の通う視覚特別支援学校では点字指導や白杖歩行の練習はもちろん、〝色〟の授業がある。
 むろん僕たちは色を見たことがないので色彩語や感情などで色を憶える。
 例えば赤は、リンゴ、血、情熱的、興奮。
 青は、空、風、さわやか、冷静、知性、といったように。
 僕たちは会話や普段の生活から色を学び、自分なりにイメージする。
 でもあくまでイメージだ。リアルな色は絶対に分からない。
 絵を描くのが大好きな僕にはそれがとても辛い。苦しい。悲しい。
 たった一度でいいから世界中に存在するありとあらゆる色を見てみたい。
 僕が知っているのはいつも目の前に広がっている〝黒〟だけだ。
 どうやら黒はリアルな色らしい。
 色を愛する僕にとってそれは喜ぶべきことだ。
 でも、皮肉にも僕は黒があまり好きじゃない。
 なぜなら黒には不幸やら絶望やら、暗いイメージがあるからだ。
 だから僕は絵を描く際できるだけ黒は使わず明るいイメージの色を使うようにしている。
 見てもらう人にも明るい気持ちになってもらいたいから。

先行配信vol.3は11/12 (火)の予定です。